初のジャニーズ性加害告発本に携わった作家・本橋信宏が語る舞台裏
〈ジャニーズ事務所にいるアイドルたちよ、おれの二の舞にだけはなってくれるな〉
今から35年前、フォーリーブスの元メンバー・北公次さんが、ジャニーズ事務所の創業者、故・ジャニー喜多川氏による性被害を告白し、社会に大きな衝撃を与えた。トップアイドル時代に覚せい剤に溺れたことなど自身の半生を赤裸々に綴った著書『光GENJIへ 元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』(データハウス、1988年)は、35万部ものベストセラーとなり、性加害が公然の事実となる大きな役割を果たした。
〈この人の言うことをきかないとデビューできないと思っていたので、我慢しなくちゃいけないと思った。でも、どんどんエスカレートして……〉
元トップアイドルが実名で告白した最初の一冊となったが、事態は変わらず、今年になってようやく社会問題として認識されるようになった。そんな中、『全裸監督 村西とおる伝』などの作品で知られる作家・本橋信宏さんが、8月に上梓した著書『僕とジャニーズ』(イースト・プレス)で、自身が『光GENJIへ』のゴーストライターであったことを明かした。
本橋さんは「あの本が虚構の書であるというデマが流れ、黙っていては間違った史実がまかり通ってしまうと思い、当事者の私があえてゴーストライターとしての掟を破り、素顔をさらして、嘘偽らざる舞台裏を公開しました」と語る。35年前の出版はどう実現し、北さんは告白後も動かない社会に何を感じていたのか。
●『光GENJIへ』誕生の裏側
出版のきっかけは1988年、「ジャニーズ事務所マル秘情報探偵局」にかかってきた1本の電話だった。この風変わりな電話回線は、ジャニーズ事務所とのトラブルをきっかけに村西とおる氏がこの年に開設したもので、所属タレントのスキャンダル情報を募集していた。
「開設わずか1カ月で1000件以上の情報が吹き込まれ、9割方は罵詈雑言でしたよ。ただ、タレントの女性問題や内部情報なども複数あったんです。その1つが、『フォーリーブスのリーダーだった北公次がジャニー喜多川氏と1960年代後半から同棲していた』という情報でした」(本橋さん)
村西氏の部下だった人物は、その情報をもとに和歌山県田辺市を訪れ、北氏を見つけ出して東京に来るように説得した。芸能界を離れ、地元で土木作業員などとして働いていた元アイドルは上京後、ジャニーズ時代を回想して一冊の本にまとめることに同意する。それが本橋さんと“公ちゃん”の出会いだった。
「浅草のホテルにこもって話を聞いたんですが、決定的な話は出てこないんですね。『ジャニーさんと親密な関係にあったっていうのは、本当ですか?』と聞いても、彼に『ないよ』と否定されて、街の噂だったのかなと一旦は引いたんです。ところが4日目になって、突然告白が始まった」(同)
実はその前日、村西氏が説得し、逡巡していた元アイドルの背中を押していた。別れた妻にも話さなかった事実を、堰を切ったように語り、すべてを話した後は放心状態だったという。そうしてできた1冊が『光GENJIへ』だった。
1965年からすでに雑誌では、ジャニー喜多川氏の性加害問題は取り沙汰されていたが、大人気アイドルグループの元メンバーが実名で明かしたのは『光GENJIへ』が初めてだった。しかし35万部のベストセラーになっても、ごく一部の週刊誌や夕刊紙をのぞいてメディアは沈黙を続け、性加害の訴えはまるでなかったかのように、その後もジャニーズ事務所の隆盛は続いていく。
「新聞社やテレビ局もスルーしました。当時の芸能界への偏見もあっただろうし、LGBTの概念もない。警察も男同士の性犯罪は動かなかった。事務所にとっても、やり過ごせば忘れられるという、言わば成功体験になってしまったんでしょうね。結果として、50年以上にわたって東京のど真ん中で少年たちが性被害にあっていったわけです」(同)
『微笑』『週刊大衆』『FOCUS』『週刊文春』『アサヒ芸能』など、一部の週刊誌は報じたが、テレビやジャニーズ事務所との関係が深い出版社での掲載はなかった。
北さんは当時、『FOCUS』の取材に〈本を出した時、レポーターや記者がドッと来ると思ったけど一切来なかった。その時“ジャニーズ事務所の力はすごいな”と思いましたよ〉(1989年8月18日)と答えている。
「公ちゃんは、自分がやられたことは今も合宿所で行われている。オレはそれを止めさせたいんだとそういう思いでいました。だから公ちゃんは歯痒かったと思いますよ。あれだけのスターが実名、顔も出して語ったのに、何も変わらなかった。社会もそれを肯定したわけです」(本橋さん)
発売後、版元に事務所からの抗議などはなかったという。ジャニーズ事務所は当時、『週刊文春』の取材に対し、「北にやらせたのはアダルトビデオの村西とおる監督。卑劣な挑発に同じ土俵で戦うつもりはありません」(1988年12月1日号)とコメントしている。
●「社長を信じていたのに、ああいうことをされて」
テレビや新聞など大メディアは沈黙を続けたが、思いがけない展開もあった。北氏を慕う元ジュニアらが自らの傷を語り始めたのだ。翌秋、本橋さんが監督となり、彼らの声と北さんの証言をおさめたビデオ『光GENJIへ』が発売される。
「14歳だった。社長を信じていたのに、ああいうことをされて」(証言より)
「なんか足がグズグズするからハッと目が覚めたら、ジャニーさんがいて『明日はレッスンがんばろうね。今度、ドラマのオーディションがあるから、ユーは絶対出させるから』。おいしい話をしながら身体に迫ってくるんです」(同)
ビデオでの証言者には「ジャニーズ性加害問題当事者の会」の平本淳也代表や、元ジャニーズJr.の木山将吾(山崎正人)さんがいた。
木山さんは後に、著書『SMAPへ そして、すべてのジャニーズタレントへ 』(鹿砦社、2005年)の中でその無念さをこう著した。
〈僕らが書いた告発本も4、5冊にのぼって、何度か週刊誌の取材も受けてきたが、僕たちがテレビで取り上げられることも、ジャニーのホモセクハラが話題になったり、社会的制裁が与えられるようなこともなかった〉
〈告発以降、ジャニーズとの戦いは、まるで象に噛み付く蟻のようなもの〉
『僕とジャニーズ』の担当編集者、穂原俊二さんは「1988年の時点で糾弾されていたのに、何も変わらずに性加害は続いていた。当時と今の証言内容は全く同じ。35万人もの人が読んだのに、全く変わらなかった。それはなぜだったのか」と問う。
●平本さん「当時、本を読んで、これはすごいやって」
『僕とジャニーズ』発売前夜の8月15日、都内で開かれたトークイベントには「当事者の会」から平本さん、副代表の石丸志門さん、中村一也さん、大島幸広さんも出席。『光GENJIへ』について意見を交わした。
「35年、何も変わらなかったんだなと」(中村さん)
「当時、本を読んで、これはすごいやって。僕たちの時代は、我慢しないとデビューできない既定路線になっていたけれど、言ってはいけないこと、墓場まで持っていかなければいけない最大の秘密だった。それをスーパースターの北さんが言っている。本の内容も衝撃でしたが、これを公にしていたんだ、と。それで北さんに会いに行って。それが全ての始まりでした」(平本さん)
今回の出版に際して、本橋さんは35年ぶりに『光GENJIへ』を読み返した。「ほとんど忘れていたんですが、だからこそ客観的に読み返すことができました。思ったよりもよく書いていたんだな、と思いましたよ」と語る。
ジャニーズ性加害問題を語る上で、重要な意味をもつ証言をおさめた作品ではあるが、書き手としての本橋さんが本に込めた思いは、それだけではなかった。
「小説や映画に駄作はあっても、人間の半生に駄作はひとつもない。僕は成り上がったり、下がったりという過程が好きなんです。貧しいころから夢を見続けて成功し、どん底も味わった、北公次というひとりの男の切なくて儚い一編の青春ストーリーとして書きました」
性犯罪の被害者としてではなく、もがき苦しみながら一度はトップスターにまで上り詰めた一人のアイドルの存在を知って欲しい。『光GENJIへ』から35年、本橋さんが『僕とジャニーズ』に込めた思いは変わっていない。
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