【芸能】なぜ30歳間近でレスラーに? 箱入り娘の“闘魂Hカップグラドル”白川未奈が証明したい「女性に賞味期限はない」《特別グラビア企画》
校長も親も混乱「一体何を言い出したんだ」…“元家庭科の先生”レディ・Cのレスラー転身秘話「父親に泣きながら土下座しました」《特別グラビア企画》 から続く
キャバ嬢、警察官、教師、グラドル――。全く違う人生を選んだ4人はなぜリングに辿り着いたのか? 熱狂する「女子プロレス」の世界に迫る(全4回の4回目/#1、#2、#3に続く)。
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女子プロレスラーの白川未奈は11月3日、「スターダム」広島サンプラザホール大会でワンダー・オブ・スターダム王座に挑戦。王者・上谷沙弥の必殺技フェニックススプラッシュがアゴに命中し、3カウントを取られた。前歯の折れた白川は、口から流血し号泣しながら「この地獄から這い上がるところをファンの皆さんに見せないとプロレスラーじゃない」と宣言。壮絶な散りざまが、多くのプロレスファンから絶賛された。
父は実業家という裕福な家庭で生まれ育ち、「闘魂Hカップグラドル」としても活動する白川。「20代の頃より、今の私のほうが輝いている自信がある」と、30代になってもチャレンジし続ける“原点”を語った。
「もっと人生をサバイブしたい!」竹下通りを6往復
――白川さんは、かなりセレブなご家庭の生まれだとか……。
白川未奈(以下、白川) 一応、社長令嬢なんです(笑)。父親は一代で会社を築いたんですが、あわよくば長女の私に継いでもらおうと考えていたんじゃないかな。妹と違って私はかなり厳しく育てられて、中高は私立の堅めの女子校に入れられました。でも学校は全然合いませんでしたね……。みんな同じ髪の色、同じスカートの丈で、先生に言われた通りのことをして、毎日がつまらなかったです。
――自分を押し殺した生活だったんですね。
白川 中2のとき、親にも学校にも内緒でオーディションを受けました。芸能活動は禁止の学校だったけど、私は昔から芸能界に憧れていて、どうしても歌手になりたかった。今もですが、安室奈美恵さんに憧れていましたね。
でも結局バレて、母親と先生と三者面談をすることになりました(笑)。「もうちょっと勉強してからでも芸能人になれる」と説得されて、そこからは本当に自分を押し殺す生活になっちゃったな……。
――その後は青山学院大学をご卒業されて、一般企業に就職されたそうですね。
白川 青学を卒業した後は、ブライダル系の企業に就職しました。仕事自体はすごく楽しかったんですが、どこか刺激の足りない日々でした。ある日「もっと人生をサバイブしたい!」という気持ちが爆発して、仕事が終わった後そのまま、原宿の竹下通りをスカウトされるために6往復しました(笑)。
――6往復ですか! そこでスカウトされ、グラビアデビューしたんですね。
白川 もともと歌手になりたかったんですが、いただいた名刺がグラビア事務所のものばかりだったので、「このジャンルで求められているってことなんだろう」と受け止めて、グラビアの世界に飛び込みました。ただ、最初の撮影では人前で水着になるのが本当にキツくて、初めてのDVD撮影では泣いてしまって……。
獣神サンダー・ライガーに感動「すごい人を見つけてしまった!」
――そうなんですね。でもグラビアからどうやってプロレスの世界に?
白川 芸能界で過ごしながら辛いことも経験している時に出会ったのがプロレスでした。友達に誘われて新日本プロレスの大会に行ってみたら、選手の方々が命をかけて戦う姿に本気で感動したんですよね。「私の悩みって小さいなー」と素直に感じて、活を入れてもらったような気持ちになれて。
――白川さんは獣神サンダー・ライガー選手の大ファンであることを公言していますよね。だいぶ上の世代の選手ですが、どういうきっかけでファンになったのでしょうか?
白川 プロレスを初めて観戦した帰り、「なんかプロレスってすごい! もっと観たい!」とわけもわからないままレンタルビデオ屋に行って、目についたDVDを借りたんですよ。それが「スーパーJカップ」(獣神サンダー・ライガーが発起人のプロレス興行)でした。ライガーさんは分厚い体なのに飛ぶし、マスクマンなのに感情がすごく伝わってくる。「これはすごい人を見つけてしまった……!」と思いました。
――プロレス好きグラドルとして、観戦コラムの執筆やイベントのMCなどの仕事もしていましたよね。いろんな団体からリングデビューのオファーがあったのでは?
白川 そうですね。リングの上への憧れはありつつも、プロレスラーへの尊敬の念が強すぎて、ずっとお断りしていました。それでも一歩踏み出せたのは、年齢的なことが理由です。グラドルって三十路が近くなると、「結婚はどうするの?」とか「そろそろグラビアは引退だね」とか周りにすごく言われるんですよ。でも、じゃあ私の夢はここで終わりなのかと想像してみたら絶対イヤだった。親にもすごく反対されましたが、何歳になってもチャレンジする道を選び、30歳でリングデビューしました。
尽きぬ海外興行の野心「ちっぽけな自分をさらに実感したい」
――初めは東京女子プロレスにレギュラー参戦していましたが、2020年10月からはスターダムへ。ここで主戦場を変えたのも、なかなかの挑戦だったように感じます。
白川 海外志向がどんどん強くなったんです。「海外で試合するためには、何か違う行動を起こしたほうがいいな。アメリカに移住してドサ回りでもしようかな」と真剣に考えているときにコロナ禍になって、「これはアメリカ行きは数年は無理だな」と感じたんですよね。国内から海外に発信するとなると、スターダムが海の向こうに一番近いんじゃないか。ここで勝負しなければ、と決断しました。だから10月にアメリカ遠征が実現したときは本当に夢のようで、現実感がなさすぎて逆に緊張しませんでした。
――国内でも多くのファンを持つ白川さんが、ドサ回りしてでも海外デビューを目指すのはどうしてですか?
白川 生きているあいだに、たくさんの人間と出会いたいんです。日本は大好きだけど、そこだけの価値観にはなりたくない。視野が広がったら、ちっぽけな自分をさらに実感できると思っています。結局、世界はひとつですからね!
――思想がデカいですね……!
白川 そうなんですよ(笑)。思想がデカすぎて、自分でも困っちゃうくらいで。先日もスターダムの興行でアメリカに行かせていただきましたが、うれしかったのは一瞬ですよ。うれしさ1、反省9。夢がデカすぎるぶん、反省の毎日です。
――「思想がデカい」のは昔からですか?
白川 昔からですね。でも、その傾向がどんどん高まっているとは思います。今、「人生は一度きり」と「地球はひとつ」というのを本当に毎日意識しているんですよ。最後に死ぬのは、絶対決まっているじゃないですか。そこが決まっている以上、人生のほかの部分は悔いが残らないような選択をしたいと思っています。
――「人生は一度きり」ですか。
白川 私はグラドルになったのも20代中盤になってからだったし、プロレスラーになったのも30歳間近になってから。業界的にはどれも遅めなんですが、こうして今もやれているので、世の中の女性たちには年齢を理由に何かを諦めないでほしいなぁと感じています。心配しての言葉なんでしょうが、うちの親にも「女性には賞味期限がある」と言われました。でも20代の頃より、今の私のほうが輝いている自信があります。いつか引退しても、それからのビジョンもあるし、ますます人生楽しくなるだろうなと予感しています。
「私の人生って父親がラスボスなんですよね」
――引退後のビジョンとは?
白川 プロレスをやっていて、健康の大切さを本当に実感します。年を取ると誰しも膝が悪くなったりするじゃないですか。で、プロレスラーって関節を痛めやすいんですよ。元プロレスラーという立場を活かして、ジョイント系のサプリを開発できないかなと考えています。他にもエステとジムが一緒になった施設を経営するなど、フィットネス産業で何かやりたいんですよね。たぶん父親は、今でも自分の会社を私に継いでほしいんですよ。私も別にイヤなわけじゃないけど、それは今じゃない。一通り自分で結果を出してから、私の事業とくっつける形なら父親の会社を継いでもいいかな(笑)。
――白川さんの人生において、父親というのは大きな存在なんでしょうね。
白川 私の人生って父親がラスボスなんですよね。一番嫌いだけど、一番好きで尊敬する存在。「父親より良い男に出会ったことがない」っていうのが、私の結婚できない理由のひとつです(笑)。
――娘のリングデビューを父親はどのように受け止めているのでしょうか?
白川 芸能活動のときから大反対されています。特に芸能のときは、それ一本で食べていけなくて、バイトもしていたんですよね。一度は家を飛び出したのに、結局頭を下げて実家に戻ることになったりして、父親には「生活できないなら、それは『仕事』じゃない。ただの趣味だ」とチクチク言われてきました。でもプロレスラーになってから、少しずつ金銭的にも上向きになってきました。父親もだんだん認めてくれているのは感じます。まだ父は私の試合を観たことはないけど、いずれは招待したいですね。
「がんばった」と思わせるために、ゆくゆくは父親と同じレベルの車に乗るのが夢なんです(笑)。父親はランボルギーニに乗っているので、私はスーパーカーの似合うスターになって、いつかフェラーリに乗りたいですね!
撮影 杉山拓也
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