【芸能】「山田邦子って誰?」テレビから“消えた”30年間… バッシング、乳がん、M-1採点で賛否、山田邦子62歳とは何者か?
漫才日本一を決める「M-1グランプリ2022」決勝が12月18日行われた。
今年の決勝では、昨年をもって審査員を退いた上沼恵美子とオール巨人の後釜に誰が入るのかが注目されていた。
1週間前の12月11日、ひとりが5年ぶりの復帰となる博多大吉、そしてもうひとりは山田邦子と発表され、とくに新たに加わった山田が一躍脚光を浴びることになる。
審査員就任の発表後には、SNSではおそらく若い世代からだろう「誰?」という声も上がった。
じつは山田はそうした反応を、YouTubeに自分のチャンネルを開設して以来受けており、そのたびに「山田邦子です。以後よろしくお願いします」と返してきたという。
今回の決勝でも番組冒頭で審査員として紹介された際、話の途中で思い出したように「……あ、私、山田邦子です」と挨拶していた。
テレビから“消えた”30年間、何をやっていた?
山田がゴールデンタイムに自分の名前を冠したテレビ番組をいくつも抱えていた時期はすでに30年近くも前だから、若い世代が知らないのは無理もない。
もっとも、山田邦子はけっして過去の人ではない。
YouTubeなどネットで積極的に発信を続ける一方、芸も磨き続けてきた。
40歳をすぎてから三味線、続けて長唄の稽古を始め、2019年、58歳にして名取となった。
本業のお笑いでも、同年に新宿末廣亭に出演、また翌2020年には『笑点』の演芸コーナーに初出演した。
山田は誰か師匠についてお笑いの世界に入ったわけではない。それだけに、新宿末廣亭への出演で、
芸歴39年にして初めて演芸場の舞台に立ち、ようやく「芸人」の仲間入りができて一人前になった気がしたという(山田邦子『生き抜く力』祥伝社新書)。
「テレビ出演がバレたら退学」
お笑いは子供のころから好きだった。幼稚園・小学校時代をすごした東京・森下町の近くにあった人形町末廣にはよく連れて行ってもらい、「昭和の爆笑王」初代・林家三平の客いじりも体験した。
ザ・ドリフターズの人気番組『8時だョ! 全員集合』の公開放送もたびたび見に行き、1974年にはグループから荒井注が脱退し、志村けんが正式なメンバーになった回に立ち会ったという。
中学から短大まで在学した女子校・川村学園では、お楽しみ会のような機会が色々あり、そのたびに生徒が出し物に力を入れていた。
山田も同級生とコンビやトリオを組んで漫才を披露し、人気を集める。短大に進むと、コンビを組んでいた子に誘われ、早稲田大学のインカレサークルである寄席演芸研究会に入った。
のちにはオアシズ(大久保佳代子・光浦靖子)などプロの芸人も多数輩出してきたお笑いサークルだ。
70年代~80年代初めのこの時期、テレビには素人参加番組がたくさんあり、学生対抗の企画も多かった。
寄席演芸研究会にも学生対抗チャンピオンのような人が何人もいて、テレビ出演のアルバイトが次々と舞い込んでいた。
ただ、川村学園では芸能活動が禁じられており、テレビ出演がバレたら退学しなければならなかった。
そのため山田も最初はライブにだけ出ていたが、やがて名前と学校名を変えてテレビに出始める。
なお、相方だった子には、「お嫁さんになるから学校を退学するわけにはいかない」と断られたので、ピンでの出演となった。
20歳でデビュー「就活として認めてください」
テレビに出始めるや、それを見て出演依頼があいつぐ。初期の十八番は『魔法使いサリー』などアニメのモノマネだったが、NHKに出演するにあたり民放の番組のネタはNGと言われた。
そこで新たにバスガイドのモノマネを考え、これが定番ネタとなる。
もっとも、山田のデビューはお笑い番組ではなくドラマだった。
それもNHKの番組で彼女を見たTBSのプロデューサーからスカウトされてのことであった。
しかし、デビューが決まった矢先、学校にOGなどから連絡がありテレビ出演していたことがバレてしまう。
ピンチに立たされた山田は「これを職業にするので、就職活動として認めてください」とダメ元で頼み込んだ。
すると教員たちは喜んで応援してくれたという。
以下、ソース
https://news.yahoo.co.jp/articles/3df7b7ecca18d86cc19d4434a74d7b4f144ffeda